名文
以前にも書きましたが、最近はもっぱらiPhoneで小説などを読んでいます。i文庫Sというアプリで、青空文庫から過去の名作をダウンロードして読んでいます。もちろん無料です。
以前、太宰治の小説を読みあさっていると書きましたが、太宰はほとんど読んでしまったので、今は鴎外などを読んでいます。それで気がついたのですが、鴎外の作品というとすぐ思いつく「舞姫」や「雁」や「山椒太夫」など、すでに読んでいると思っていた作品を、実際にはすべて読んでいなかったのですね。
すべてどのような話かは、よく知っているものばかりです。「山椒太夫」は、子供の頃、子供向けに書かれたものを読んだように思うのですが、他はTVドラマや映画で見たのでしょうか。それで実際に読んでいるつもりになっていたのですね。このようなことは、名作と言われているものには多いかもしれません。
漱石の「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」などは誰でも知っている小説ですが、本当にそれを読んだことのある人はどれくらいいるのか、疑わしい。
これは、知識だけ植え付ける教育の弊害ではないかな。また国語の教科書に、文章の一部だけ載せてあるのもどうかと思う。それだけ読んで、全部読んだ気になってしまっているのかもしれない。そんなことをするより、短編小説を一編、完全に載せた方がいいと思うのだが。
ですので、実際に読んでみてはじめてこんな小説だったのだと知ることも多いのです。それまで持っていたイメージとだいぶ違っていたりして、愕然とすることもあるのですね。思い込みというか、洗脳されているのか、恐ろしいことだ。
それはさておき、このような名作を読んで常に感じることなのですが、内容がどうの、表現がどうのという前に、みなとても読みやすい文章なのです。すらすらと読める。旧仮名遣いの文章や、文語体の文章でもさほど苦にならずに読めるのですね。名文とはまず読みやすい文章ということなのですね。
文章を書くプロというのは、読みやすい文章を書くプロということなのですね。文章の職人です。わざわざ分かりにくい 、わけのわからない表現をして、作家面している連中などもってのほかだ。よく分からないことをするのが芸術家だとか思っていたりする。また、それを解説する評論家などという人種も現れてくるから、始末に悪い。
だいたい「私は芸術家だ」などと言っている連中に、碌な者はいない。
やはり、職人はいいな。職人は素晴らしい。