自他合一

先日、TVで陶芸家の河井寛次郎さんの番組をやっていました。京都の東山にある、現在「河井寛次郎記念館」になっているご自宅からの放送でした。美しい庭と一体になった素晴らしい御宅です。ですが、今日書くのは家についてではありません。
その番組の中で「自他合一」という言葉がでてきました。
禅の言葉だと思います。西田幾多郎さんの用語で言うと「絶対矛盾的自己同一」ということになるのでしょうか。禅の有名な公案、鐘の音を聞いて「鐘が鳴っているのか、撞木が鳴っているのか」と問うやつですね。「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るか、鐘と撞木の間(あい)が鳴る」という都々逸(?)もあります。現代的な言い方をすると、「鐘と撞木の関係性の中で音が生じる」ということになるのでしょうか。
では、鐘と撞木のどちらが自で、どちらが他なのでしょうか。鐘が自で、撞木が他でしょうか。その逆でしょうか。多分、その両方なのですね。自でありかつ他である。自と他は容易に入れ替わる。自になったり他になったり。
これを「能動=自力」と「受動=他力」と言い換えることもできます。「能動」と「受動」は容易に入れ替わる。「能動」かつ「受動」ということです。
河井寛次郎さんは陶芸家ですから、禅宗のお坊さんが修行で到達するのとはちょっと違う境地に達したのだと思います。陶芸作品はそれが出来上がるまでの過程で、陶芸家が手を下せるのは作品を釜に入れるまでで、後は釜の火の番をするくらいしかできません。要するに過程の一番重要な部分には、直接手をくだせないのです。そこはお任せになるわけです。
ですので陶芸作品は自力とそれ以外の力(=他力)、その両者によって生み出される、自他合一ということになるのです。ですが、これだけではないのですね。
陶芸家にとって、作品の出来上がりは釜を開いてみないとわからないわけです。その時、想像していたものより出来が悪くてがっかりすることも多いでしょう。想像通りの物ができれば、納得ということでしょうか。しかし、もうひとつ想像以上というのがあるのです。
時として、想像していたもの以上の物ができることがあります。私は、名人とはこの想像以上のものを生み出すことができる人だと思うのです。想像通りというのは当たり前、それは普通ということです。想像以上のものができる、そうでなければ、自他同一というような境地には至らないと思います。ですから、名人ほど謙虚になる。決して、偉ぶらない。それは自分より大きな力の存在を実感しているからです。


要するに、やたらと偉ぶる人間に碌な者はいないということだな。


陶芸だけではなく、建築も同じです。建築家のできることは図面を作るところまでで、それ以降は直接手を下すことはできません。実際に建物を作るのは、大工さんや職人さん達なのですから。特に、最終的に出来上がった空間を設計段階で想像するのは難しいのです。ですので、出来上がった空間と初めて対面する時の印象には、特別なものがあります。想像を超えるものができた時、そこで感じる幸福感はこの上もないものです。
私は写真を撮るのが好きです。写真も同じですね。写真を撮る人にできるのはシャッターを押すまでで、あとはお任せになるわけです。どのような写真が撮れているかは、撮れた写真を見るまでわかりません。今はほとんどデジタルになってしまいましたが、フィルムだった頃はもっとその感が強かったですね。 私の感じる写真の面白さとは、意図していなかったものが写っていることです。それが写っていることでその写真が成立しているということです。


しかし、世の中にはすべてを自分でコントロールしようとする人もいます。建物だけではなく、椅子などの家具や什器までをもデザインしてしまう人も。悪いとは言いませんが、そういうのは面白いのかなあ。
私はいろいろなアイディアや要素が集まって、思いもかけないものが出来上がったり、時と共に変化して行ったり、そういうのが楽しいし好きだなあ。