光悦展(つづき)

光悦展で圧巻だったのは、やはり光悦の茶碗ですね。重要文化財4点を含む19点の楽茶碗と膳所焼きの茶碗が2点が並んでいました。壮観です。素晴らしい。黒楽と赤楽が中心ですが、白楽や飴釉楽もありました。黒楽は直線的で力強く、赤楽は丸みを帯びて妖艶な感じがします。
これらの楽茶碗を見ていて、特に黒楽茶碗の箆で切りっぱなしにされた口を見て、ふと頭に浮かんだことがあります。それは「作為」と「不作為」ということです。
人間のすることに「不作為」ということはありえないのですが、できるだけ不作為を作為するというか、意図しないということを意図するというのか、それは全くの矛盾なのだけれど、それを目指しているように感じるのです。どこかの時点で自分の手から離してしまう、外の力に委ねてしまうということです。
シュルレアリスムも同じようなことを考えて、いろいろな試みをしたのだけれど、彼らはそれを無意識に求めたわけです。「意識」に対して「無意識」を立てたのですね。それは結局、答えを自分の中に求めたということです。それに対して光悦やその周りの人たちは、自分の外側にその答えを求めたのです。それは光悦が熱心な法華宗の信徒であったことも関係しているのかもしれません。
現在の楽家十五代楽吉左衛門さんのドキュメンタリーをTVで見たことがあります。その中で茶碗の口を箆で切りはなす様子が映されていました。一見無造作に、力強くグググイと切り放してゆく、もちろんまっすぐではなく、波打っているのですが、それを整えるようなことはしない。切りっぱなして終わり。意図的に出来上がりの偶然性を追求する、矛盾しているがそうなのです。
それに対して底の高台は念入りに削り出すのですね。その対比が面白い。楽茶碗の高台は小さくてめり込んでさえいるので、ほとんど見えない。それを念入りに作るのです。見えない底に手をかけて、一番目立つ口の部分を無造作に作る。とても奥深いですね。
これらは、利休の「侘び茶」の本質に通じるものだと思います。利休は歪んだ茶碗などを好んだのですが、もちろん最初は意図的に歪めたものではなく、自然に歪んでしまったものだったはずです。それを意図的に作ろうとしたわけです。
先のドキュメンタリーでも最後に出来上がった茶碗を指で潰して歪める様子が出てきました。意図的にそうしているのだが、意図的に見えてはいけない。そこでどのように歪めるかといった結果を考えず、歪めるという行為だけに集中する。口を切り放す時も同じです。そう、結果ではなくて行為のみに専念する。それによって不作為を作り出すのです。おもしろいですね。
以前、陶芸家の河井寛次郎さんの自他合一について書きましたが、陶芸というのは窯に入れてしまうと後は火に委ねるしかないのです。本来、陶芸というのはそういうものなのです。不作為によって完成するものなのです。光悦の茶碗に、火割れした茶碗を金継ぎしたものもありました。ある意味で究極の茶碗と言えるのかもしれません。