光悦展(おまけ)

光悦に関してもうひとつ私が興味を持っているのは、本阿弥という姓についてです。いわゆる阿弥号です。能の観阿弥世阿弥と同じですね。その他にも相阿弥、能阿弥などたくさんの阿弥号を持った人達が室町時代に活躍しました。同朋衆と呼ばれています。
この阿弥号とは何なのか、とても興味があるのです。阿弥号を名乗った人たちは、今日で言うアーティストや芸能人、あるいは教養人や歌人などでした。なぜそのような人達が阿弥号を名乗ったのだろうか。興味あるなあ。
以前読んだ書物には、このような特殊技能者や芸能者の多くが「河原者」と呼ばれるような卑しい身分の人たちで、足利将軍など身分の高い人のそばにとても伺候できる者達ではなかっため、これらの人達を側近くに仕えさせたかった将軍が、阿弥号を与えて側近くに置いたというようなことが書いてありました。
阿弥号を付けるということは、僧の身分になるということです。僧というの俗世を離れた者、身分制度の外側にいる者ということになります。これならば将軍に仕えることもできるわけです。この説明は結構説得力のあるものでした。
このような人達の多くが時宗の信徒だったという説もあります。一遍上人が起こした時宗と言えば踊り念仏ですが、この遊行に多くの芸能者が関わっていたことは十分考えられることです。また、遊行は関所の自由通行が認められていたため、芸能者にとっても都合がよかったということです。
では、本阿弥家はどうなのだろうか。光悦展には系図が出ていましたが、ちょっと調べてみました。本阿弥家は京の上層町衆で、足利尊氏の時代から刀剣の鑑定などをしてきた家柄だといういうことです。なぜ阿弥を名乗らなければいけなかったか、法華宗の熱心な信徒だったからでしょうか。興味ありますね。まあ、光悦が熱心な法華宗の信徒だったことはわかっていますが、本阿弥家がもともとそうであったかどうかはわかりません。
本阿弥家というのは決して身分の低い家柄ではなく、むしろその逆なのです。公家につながるかなり高貴な身分の家系なのです。ただし、ちょっと複雑な事情があるようです。
本阿弥家は鎌倉時代の公卿である菅原為長の子、菅原高長の晩年の庶子で、長兄長経の養子として育てられた長春が祖と言われています。菅原為長は公家の名門、五条家の祖です。文章博士式部大輔という官職についていた人で、要するに学者で教育者であったのです。五条家というのは役人を養成する大学寮を統括する、天皇の家庭教師をするような家柄なのです。
長春は妙本と称して、足利尊氏に仕えていたということです。妙本というのも仏教的な名前ですね。室町幕府の御用をしながら商人としても活動し、戦国時代には京の町衆として知られるようになったようです。公家から商人になったりするのだろうか、ここらに阿弥を名乗った理由があるような気がします。ますます興味がわいてくるのだが、詳しいことはわからないようです。
光悦の父光二は、応仁の乱当時の京都所司代であった多賀高忠の次男片岡次太夫の次男で、子供のいなかった本阿弥光心の婿養子として本阿弥家に入った人です。武家の出なのですね。その後光心に実子が生まれたため別家をたてたということです。光二は今川義元のもとに出仕し、桶狭間の戦いの後、信長に仕えました。
光悦は本家筋ではないということになりますが、公家と武家両方の血筋を引いていることになります。徳川家康が光悦に鷹峯の地を与えたのは、後水尾天皇の庇護もあり朝廷とのつながりが深かった光悦を、都から遠ざけたかったからだという説もあります。
光悦は一族や職人達などの法華宗徒を引き連れて鷹峯に移住し、一種の芸術家村を作り上げました。ただし、単なる芸術家村ではなく、法華宗の信徒村でもあったのです。そのあたり、ちょっと複雑な思いがあります。


こういうことってあまり歴史の教科書に出てこないですよね。だから歴史の授業はつまらなかったのだと思います。まあ、学校の授業なんてそんなもんですね。