映画を見て

久しぶりにフランス映画を見ました。昔はフランス映画やイタリア映画をよく見ましたが、最近はほとんど見る機会がありませんでした。見たのは「シャネルとストラビンスキー」という映画で、あまりヒットしなかった映画のようです。
映画のテーマ自体は、昔からよくあるやつで、今の御時世あまりウケないのでしょう。ただ、きちんとお金をかけてきちんと撮れば、このようなレベルの映画はちゃんと撮れるのだという事は実感しました。フランス映画が健在なことも知り、うれしく思いました。
しかし、私が書きたいのはそのようなことではありません。この映画を見て、感激したことがひとつあります。そのようなことは当たり前ではないかと言われてしまうかもしれませんが、私にとっては重要なことなのです。
映画の中でシャネルはフランス人ですから当然フランス語を話します。ストラビンスキーとその家族はロシア人ですのでロシア語を話します。シャネルのアメリカ人のボーイフレンドは英語を話します。この当然のことが、映画の中ではかつては当たり前ではなかったのです。
巨匠ケン・ラッセルの映画でも、マーラーは英語を話します。「アマデウス」ではモーツァルトが英語で話します。オペラをイタリア語でやるか、ドイツ語でやるかが問題になっているシーンで、皆英語で話しているわけです。イタリアの言語学者ウンベルト・エーコの世界的なベストセラーになった小説、「薔薇の名前」も言葉が主題の話でありながら、英語の映画でした。さすがにこの時は、なぜイタリア語ではなくて英語なのかが問題になりました。そのほかにも、全編英語のイタリア映画など、たくさんありました。
私が最も違和感を覚えたのが「ベルサイユのバラ」を見たときでした。御存知のように原作は日本の漫画です。舞台はもちろんフランスです。そして、この映画は全編英語です。美しいフランスの街並みの中で発せられる英語の会話に、何とも言えない居心地の悪さを感じました。
なぜ私がこのことにこだわるのかというと、イタリアの街並みにはイタリア語が、フランスの街並みにはやはりフランス語が似合うのです。言葉は単に意味が通じればよいというだけではありません。言葉にはそれぞれの言語に特有の音、リズム、テンポがあります。その音やリズムやテンポが街を作っているのです。いや、その言語を使う人々の文化そのものを形作っているのです。
私は、映画という文化を創造する人たちが、このことに無関心であることに許し難い思いを感じていました。言葉を単なるコミュニケーションの手段としか見ない、狭い機能主義の貧しさを感じざるを得ませんでした。
最近は子供に早くから外国語を学ばせることが流行っていて、それ自体は悪いことではないと思いますが、母国語をきちんと身につけさせないと、外国語は話せるが、文化的にも思想的にも貧しい人間を作るだけだと思います。実際、英語がいくら達者でも、日本語がきちんとしゃべれない者は、大して役に立たないということは、いろいろなところで言われています。