震災からほぼ1年-その2

先月、仙台市のマンションの震災被害に関する、驚くような報告が出されました。当初は倒壊0棟とされていたものが、今回の発表では、全壊100棟となったのです。当然、それは大騒ぎになりますよね。当事者にとっては、大問題です。
それでは、当初の発表が間違っていたのかと言うと、そうではないのです。倒壊と全壊、言葉が違っています。要するに、判定の基準そのものが異なるのですね。倒壊0というのは、日本建築学会の「被災度判定基準」によるもので、全壊100棟というのは、内閣府が定める「災害に係わる住家の被害認定基準」によるものなのです。そもそも、判定自体の目的が異なるわけです。
建築学会の基準は、建物がどのくらい壊れたかを判定するものであり、内閣府の基準は、その建物に人が住み続けられるかどうかを判定するものなのです。ですので、当初の発表では、倒壊0、大破0、中破26、多くは壊れていいところが壊れたというものだったのですが、後者の基準による判定では、そのままでは住み続けることができないマンションが100棟あるということになったのです。住んでいる人にとっては、後者の基準の方が重要だということは、言うまでもありません。
ところで、「壊れていいところが壊れた」という部分に、違和感をおぼえる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、壊れていいところは壊れていいのです。設計上も壊れていいところとして、設計されているわけです。その部分が壊れることにより、より大きな破壊を防ぐという場合もあります。コストの問題もあります。大きなコストをかけて強度を高めるより、設定した基準を超える力がかかった時には壊れる、という設計の方が、合理的な部分もあるのです。
それにしても、この全壊100棟というのは、やはり大きい数字だと思います。地震発生直後は、地震自体による建物被害は少なかったと思っていたのですが、そうでもなかったのですね。それと、この中には新耐震の建物も相当数あったということです。思った通りだ。
震災前は、「旧耐震だから危ない、新耐震だから大丈夫」というような言われ方をしましたが、そのような議論には全く根拠のないことがわかったわけです。旧耐震でも問題のなかった建物もあるのです。新耐震、旧耐震という分け方は、ひとつの目安ではあっても、完全ではないのです。
結局は、新耐震でも旧耐震でも、壊れる時は壊れるのです。ですので、私はこれら全壊マンションで死者や重傷者がどのくらい出たか、ということの方が重要だと思うのです。正確な情報がないので、確実ではありませんが、大きな人的被害はなかったように思います。それはそれで良しとすべきではないでしょうか。
前にも書きましたように、発想を変える必要があるのです。絶対に壊れない建物などないのです。もちろん、壊れにくいに越したことはないのですが、壊れた時に安全な建物を造る、という発想が必要なのではないでしょうか。巨大建築論争について以前書きましたが、安全という観点から巨大建築論争をやり直してもいいと思います。しかし、これも原発と同じかな。「原発は安全です」と今でも言い続けているわけですから。


昨年亡くなった林昌二さんが、震災後の著書の中で、「ジェット機や超高層建築はきわどいものだ」というようなことを書いていらっしゃいます。林さんは日建設計の社長もされていましたので、超高層の建物もたくさん設計しています。だからこその感想なのでしょう。
超高層建築と言えば、日本設計の前の社長だった池田武邦さんのことも思い出します。我が国最初の超高層建築である霞が関ビルの設計者の一人で、その後も新宿三井ビルなど多くの超高層建築を設計していますが、今はご自身が設計した、茅葺の家に住んでいらっしゃいます。多くの超高層建築にかかわってきた二人の建築家ならではの、思いなのでしょう。
池田さんでもうひとつ思い出すのが、20世紀が終わる頃話題になった、ノストラダムスの大予言についてです。世紀末に地球が滅亡するというやつですね。池田さんはノストラダムス研究者として、この話題の渦中にいました。池田さんが、ノストラダムスをどのくらい信じていたのかは分かりませんが、多くの超高層建築物や巨大建築物を設計してきた人だからこそ感じる、現代文明の危うさ、きわどさがあったからではないでしょうか。なんらかの警鐘を鳴らしたかったのかもしれませんね。
最先端の技術だから、それがきわどいのは当然だという人もいるでしょう。きわどいところに挑戦し続けることが、進歩につながるという考え方もあるでしょう。それ自体は否定しませんし、心踊る部分もありますからね。
私は、F1が好きで、以前は鈴鹿によく行きました。F1の魅力の一部はきわどさにあります。事故が起これば、最悪の場合、死亡事故となることもあります。もし、このきわどさがなかったならば、F1の魅力は半減してしまうはずです。リスクも魅力の一部ということです。
F1がきわどいものだということは、誰でも知っています。F1マシンを操るのは、特別な訓練をした、特別な能力を持った人間だけです。しかし、ジェット機や超高層建築は、誰でも利用します。その時に、それがきわどいものだということを認識している人はどのくらいいるでしょうか。これらのものを造る側にも、このような認識がなくなっているとしたら、それは恐ろしいことです。原発の二の舞だ。
現在も超高層建築はたくさん建てられています。本当に超高層の建物はそんなに必要なのだろうか。疑問だなあ。東京スカイツリーも、あんなに高くする必要があったのだろうか。スカイツリーの上から氷の塊が落ちてくるという怖いことも起きています。ただ世界一の高さにしたいというだけならば幼稚だなあ。ワクワクはするけど。